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   お塩ちゃん夕張店は 天日海塩750g総販売元です

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涙が止まらない  うれしいのか
かなしいのか それすら
     わからなくなっている











日刊富良野 記事      


「夕張への遺言」・・・はじめに 著 笹谷達朗  桃太郎のお話

涙がとまらない
うれしいのか
かなしいのか
それすら わからなくなっている
覚悟はできた 肚で決めた
その覚悟をくれたのは
ふるさと夕張であった
向かう先は
「放射性物質」だらけのフクシマか?

涙がとまらない
うれしいのか
かなしいのか
それすら わからなくなっている
覚悟はできた 肚で決めた
その覚悟をくれたのは、ふるさと夕張であった
向かう先には、「放射性物質」だらけのフクシマか?
今も原発処理に命を懸ける人たちのためか?
それすらもわからない
ただわかるのは、
エネルギー(石炭)を求めて炭鉱の坑口に入る瞬間の気持ちだ
昔、炭鉱マンは、「塩の塊」をなめて、石炭を掘った・・・
おれにできることは、なんであろう
きっと、小さなこともできないであろう
知らなければ、よかった
追及しなければ、良かった
タダ、わかってしまったのである。
放射性物質に有効な「塩の存在」を・・・
私の知識の中に、それはある
もう逃げられない 知った以上は 逃げたくない
どうすればいいのだろう

3.11の震災で、多くの被災者を夕張に移住の公約、
それだけで、十分だった
多くの悲しみが、体中に伝わり・・・

夕張で、わがままし放題ができた
それだけで、しあわせだった

心残りは、こころの懲りとなり、自分を苦しめる
あやまりたい人ばかり 
自分の言動が多くの人を傷つけ、原動力となって今がある   つづく

テキスト自然塩』を読んで、お塩の大切さを知り、お塩に疑問を持ち、
本当の塩、本来の塩、理想の塩とはどのようなものだろうか?と
考えるようになりました。
そうこうしているうちに、東京で小さなレンタルオフィスを借りて、
一般的になり始めたインターネットで、サイト構築に取り掛かりました。
その時は、ただ、ただ、お塩の大切さを訴えて、
ホームページ作成を行った記憶があります。『ご塩者』ごえんじゃ誕生!
それがきっかけで2000年に、沖縄で、理にかなったお塩を生産する
お塩職人さんと出会いました。そして、理想的なお塩を造られているのが、
「何故、沖縄なのか?」がわかりました。
2004年には、お塩の輸入自由化が実施され、
様々な家庭用食塩が輸入されるようになりました。
選択の自由は与えられた反面、あまりにも、お塩について、
認識不足のため、様々な弊害が予測されます。
2005年ころ、あいにく、私が、お塩を作るわけにもいかないため、
お塩の生産者にお願いして、
自分のブランド「天日海塩750g」を作ることができました。

天日海塩750g

ご塩社オリジナル
2009年冬

2007年「夕張再建セット」企画 おむすび屋さん夕張店開店 2009年夕張駅

 2006年6月「夕張財政破綻宣言」直後、
ふるさと夕張に、夕張支援事業主第一号として、ご塩社の事務所を夕張本町に開設。ご塩社では、2007年4月、注目される統一地方選挙を興味を持ちながら、
「小さなことでもいい、夕張で何かをやる」という強い意志のもと、
夕張再建セット企画(夕張にあるものを集めてギフトにしたもの)を考案し、
販売を開始しました。夕張市役所 夕張市長 夕張商工会議所に
協力をいただく約束を取り付けていましたが、イザ、ふたを開けてみれば、
夕張の生産品を集めたにもかかわらず、そっちのけでした。
夕張公設市場を運営している夕張友酉市場だけは、積極的に取り上げてくれました。いよいよ おむすび屋さん 夕張店開店。
夕張再建セット企画がきっかけで、国道274号線沿いにある紅葉山に
ある夕張メロンの直売所でおむすび屋さんを開店することができました。
このおむすび屋さんで、商売の多くを学びました。
お客様が、小さなお店を育ててくれました。
あいにく、2012年の秋をもって完全に閉店しました。
おいしい生のお塩が、おむすびの味を引き立てています。
2009年JR北海道ゆうばり駅内に、「ルーチェ・ソラーレ」をオープンし、
「生の塩で旬をおいしく」をテーマに「500円ランチバイキング」を企画しました
2011年東日本大震災をきっかけに、福島の原発事故の影響を考え、
大好評であったルーチェ・ソラーレ「500円ランチバイキング」は、
「食材の安全の信憑性」を持ち、「食を売ることは加害者になる」可能性が
あるために、名物の役割を終えました 。
ご塩社夕張は、「お塩屋さん ゆうばり」を運営しております。
2004年専売法の廃止に伴い、お塩の輸入自由化が実施され、
お塩の選択が自由にできるようになりました。ミレニアム2000年に、
ご塩社オリジナル 生の塩「天日海塩750」をブランド化しました。
ご塩社は、約20年間、お塩の大切さを発信しています。

北海道に「塩の道」作るぞ SB大作戦

 塩の道というのは、塩を運ぶ道筋のことです。
江戸時代には、塩を運ぶ「塩の道」が栄えました。
この道は、塩ばかりではなく各地の文化交流の面でも役立つことになりました。
このようなことは、アジアとヨーロッパを結んだ「絹の道」(シルクロード)と
同じであって、わざわざ必需品を運ぶ必要ができたために
文化も交流できるようになったともいえるのではないかと思います。
塩の交易が盛んに行われた原因としては、
第一に、塩は人間にとってなくてはならない物であり代替になる物がないということ第二に、塩は取れる場所が限られていたということです。
とくに日本のように岩塩がない国では、海水から塩を作る以外に方法はありません。
したがって、少なくとも山間部では、海辺の塩田地帯から延々と運んでこなければ
塩は存在しなかったわけです。現代は飛行機もトラックもありますが、
むかしは人間か舟か牛馬しか輸送手段はありませんでした。
塩はとても重いので、内陸部でも、舟の通れる川を利用して運搬していたようです。
大量輸送するときには、舟のほかに牛・馬の背中が利用されました。
しかし、人間が背中に担いで何十キロも歩いて運んだことも少なくなかったのです。
その苦労は、どのくらい大変だったでしょうか。
いまでは、知ることもできないことです。
とくに日本は山間部がか多いので、坂道が多いために、
目的地まで何日も時間がかかりました。
こうして、塩の道に沿って人の宿(牛方・馬方宿、ショイコ宿、ボッカ宿)が
できるようになり、また塩の市も開かれるようになっていくのです。
道の途中でも経済的な交易が行われるために、塩の道沿いに人が集まり、
貨幣や物も集まり、発達していったのです。
地域の交流は、物の交流だけでなく、おそらく文化的にも関係していたでしよう。
言葉とか習慣など、日本中の地域文化が無数にある塩の道を通して交錯したはずです。日本という国全体の文化的な発達にこのような「道」が大きな役割を演じていたわけで
その源が塩の交易だったというわけです。
あらためて、人間と塩の関わりの深さを感じずにはいられません。
この「塩の道」という舞台の主人公である塩商人は、
当時人々に特別に信頼され尊敬されていました。
塩売りさんに子供の名付親になってもらったり、
養い親として頼まれたりすることもあったようです。
また塩座が設けられ、保護されていました。
塩の道は、もちろん外国にもたくさんあります。
サハラ砂漠の有名なキャラバン隊も、ラクダの上には塩が積まれていました。
日本の仏教も、インドからの塩の道を通つて伝わったといわれています。

夕張に生きる
30年ぶりに帰郷 塩専門店を開業

毎日新聞 2007年1月3日 北海道朝刊
5円玉、昆布、塩、大豆の縁起物を袋詰めする
笹谷達朗さん=夕張市で2日

除夜の鐘が鳴り響くなか、夕張市本町の笹谷達朗さん(48)は
夕張神社に向かった。
普段はひっそりとしている参道は初詣での人でにぎやかだった。
石段を上って境内へ入るころ、07年が明けた。
笹谷さんはさい銭箱に5円玉を投じて頭を下げた。
「夕張に帰ってきました」 笹谷さんは昨年11月、市内で塩専門店「ご塩(えん)社」を開業。高校を卒業後、古里を離れ、
横浜の大学へ進学。貿易会社勤務を経て都内で塩専門店をしていたが、
この店を閉め、30年ぶりに帰郷した。「何とかしたいと思ったんです」。
東京で生活している時は、日々の生活の中で夕張を思い出すことさえなかった。
しかし、市の財政破たんを知り、いつも変わらない存在だった古里が消えてしまうのではないか
との焦燥や懐かしさが急速に大きくなった。故郷へ帰る決断に、ためらいはなかった。
炭鉱の閉山以降、夕張市は毎年、人口減少が続いている。
昨年6月に財政再建団体入りを表明してからは、住民サービスの低下や公共料金の負担増など
市民に不安が広がり、流出はさらに加速しており、7月末から11月末までの市外転出者は
289人に上る。昨年同期(174人)に比べ約1・7倍のペースだ。
「この場所も6月までは化粧品店が入っていたらしいです」と笹谷さんはさびしげに店内を見回す。
1日午前9時。店のシャッターを勢いよく開けると、空は晴れ渡っていた。
「今年は激動の一年になりそうだ」。笹谷さんは意気込んだ。
が、午後8時の閉店まで客は1人も来なかった。
「まだ溶け込みきれていないのかな。店を気軽な雑談スペースに使ってくれてもいいんですけどね」
と笹谷さんは話す。
来客を待ちながら、笹谷さんは客に手渡すお年賀をつくり続けている。
縁起物の5円玉、昆布、大豆を小さい袋に入れて塩を添える。
「塩の読みは“えん”。夕張に新たな縁を呼ぶ力があるんです」と笹谷さん。
財政再建団体となろうとも、故郷への思いは変わらない。

 【水戸健一】

2011年3月5日 夕張市長選挙出馬表明 「刺客だってさ」
2011年3月11日 東日本大震災 
笹谷は思った「選挙どころではない、大災害と福島原発」 「被災者の大移住計画「選挙公約に掲げた」
夕張市には、閉校はかりの学校の校舎が10ほどあった。並びに、1500部屋の空いた市営住宅があった。
2011年4月17日夕張市長選挙の公示。雪が舞う中の選挙戦が始まった。
笹谷は、「驚いた・・・」
「被災地では、大変な事態になっているというのに、他の候補者は、都会の選挙と変わらないド派手な選挙運動カーを使って、スピーカーを使って、連呼している」
とんでもない選挙に、笹谷は、「マイクを使わない」「選挙カーを使わない」市内を歩く、選挙運動にでた。
東京都23区と同じ広さの夕張市内を歩いて回った。夕張市内の事が、よく、分かった。
選挙結果は、正直、どうでもよかった。     続く
「お塩」について、書こうとしている私は、科学者でもなければ、医者でもない。
ただ、20年前に、「お塩の大切さ」に気が付いて、お塩屋さんを始めただけである。
専門的な知識で「上から目線」というわけには、いかず、探究者感覚で、書こうと思う。

人間は、悔しくて、哀しくて、さみしくて、涙を流す。
人間は、走ると汗を流す。
人間は、けがすると、血を流す。

あなたが流した「涙」「汗」「血」は、どれも「しょっぱい」。
何故、「しょっぱい」のか?
どうやら「塩分」が含まれているらしい。

体液は、体の65%~70%だそうです。
地球の「陸地」と「海」の比率に類似しています。

人間の体液には、「塩分」が関わっています。
「お塩」を敵視して、塩を摂らなくても「大丈夫」と主張するお偉い人がおります。
「減塩」といって、「お塩を減らせ」と指導する厚生労働省やお医者様がおります。
私が、「お塩」を探求し始めて、出会った言葉があります。これだ、と、ひらめきました。
「お塩の製造や供給が 国家の重要な役割の一つであることは古代から現代に至るまで同じです」

不必要になった「塩分」は、尿や便からも排泄されます。
「塩分」は、からだでは、作ることができない。
お気づきになったろうか?
私は、「塩」の事を、必ず「お塩」と呼び、書く。
「お塩」に疑問を持ち、探究していく中で、「塩」と呼び捨てにされていることに気が付いた。
国語では教えない「お」の意味を考えるようになったのです。
「お」は、大切な証です。「お」が無く、呼び捨てにされた「塩」「水」「父さん」「母さん」。
人間が生きていくために不可欠な「塩分」を、
ご先祖様の「ご」からいただき「ご塩(ごえん)」と名づけました。
また、私は、「塩」の事を、分かりやすく「塩分」と表す。
それは、わかりやすく、こう説明をしたかったからです。
あなたは、体に必要な「塩分」を、何から摂りますか?
大切な「塩分」を、イオン交換膜法という物理的に造られた「食塩」で、摂りますか?
溶解・立釜法で造り塩が固まらないように炭酸マグネシウムを添加した「精製塩」で、摂りますか?
「食塩」「精製塩」は、いずれも、国がお墨付きを付けた「食べる塩」です。
表現は、的確ではないが、「工業用」として使われる「塩」と同じ製法である。
「塩の用途」として、食用は、8%前後にしか過ぎない。
そういった経緯からも、経済・産業を最優先させた結果、工業用と同じ製法の塩を食用とした。
出来れば、「自然」「天然」の「お塩」で、塩分を補給したいですよね。

あなたが、「しょっぱい」と感じる「水」は、なんですか?
誰もが、「海」と答えるでしょう。
実は、海にも「塩分」が含まれています。
なじみのある言葉を使うと、海の「塩分」は「ミネラル」と言われます。

日本では、天然水もしくは自然水の事を、「ミネラルウォター」を称して販売しています。
何らかの鉱物成分が含まれているからでしょうが、ヨーロッパなどの「硬水」とは、違います。
日本のお水は、「軟水」で「ミネラルウォター(硬水)」ではないのです。

また、日本では、「岩塩」が取れません。「岩塩」がないから「硬水」もないのです。
長い年月をかけて「岩塩」が出来ますが、雨によって「ミネラル」は、とけだし、重たいので
下にしみて行き、地下水にたまります。それが、「ミネラルウォター(硬水)」です。
ついでに、ペットボトルは、保存用に適しているように思われがちですが、
実は、ペットボトルの性質が「お水」に、影響を及ぼすので、良いのは、ガラス瓶です。





 ご存じ、昔ばなし
「桃太郎」
 
桃から生まれた桃太郎が
若者になったとき
家来を伴って鬼ヶ島に
鬼退治に行き見事鬼を征伐し
そこで宝物まで
手に入れたというお話し
彼の成功の秘訣は何だったのか。
桃太郎は、お供として犬と猿とキジを連れて行った。
実は、この三匹の家来はそれぞれ、
犬は信頼 猿は知恵 キジは勇気
を象徴している。
桃太郎の話は、若者が家を離れて独立し、
社会の荒波の中に出ていこうというときには、
「信頼と知恵と勇気が必要だ」ということのたとえ話なのである。


しかし、初めて世の中に出ていこうという若者が、
最初からこの三つを備えているケースは極めて少ない。
だから、これらを持った仲間を作ったほうがいいというのだ。
互いに、白分に足りないものを補いあうことのできる仲間である。

これは何も若者に限った話ではない。
何かを新たに始めよう、事業取りかかろうという人にも通用する話だと思う。
自分ひとりで戦っていくことが難しいときには、仲間を作る、これが一番だ。
となると、まずは仲間を探すことが先決だ。
しかし、犬、猿、キジだって、
危険な鬼退治に無条件でっいてきてくれたわけではない。
そのとき桃太郎はどうしたかというと、
彼らに「これをあげるから」と言って、
おばあさんが作ってくれたキビ団子をあげたのだ。
いまどき、人間にキビ団子をあげても、
自分の命を賭けてっいてきてくれるような人は誰もない。
キビ団子に代わるような、魅力ある何かが必要である。
それは何かといえば、やはり情報だと私は思っている。
それも、相手に喜ばれるような情報だ。
仲間にしたいと思う相手にとって有益な情報を与えたり、
あるいはちょっとした贈り物をするのでもいい。
会社の中では、たとえぱ先輩上司に仕事の実績を譲ることかもしれない。
こんなちっとした心遣いが、現代では、大変おいしそうなキビ団子になるのだ。
もっとも、キビ団子をただぱらまくだけでは、心強い味方はできにくい。
桃太郎の時代だって、キビ団子はたいしたごちそうではなかっただろうし、
あげるといっても、たった一つにもかかわらず、
犬と猿とキジは「自分の命を賭けて、お供します」と従った。
なぜだろうか。

彼らにそう言わせる何かを、桃太郎が持っていたからだ。
それは、「日本一」と書かれた旗である。
よほどの使命感、信念がないかぎり、
背中に「日本一」という旗を立てては歩けないだろう。
桃太郎はきっと、
「村を救うために鬼退治に行くんだ」という強い使命感を持っていて、
三匹はそこに惚れ込んだに違いない。
だとすると、我々にも使命感や「やってやるぞ」という強い志がなければ、
いくらキビ団子をばらまいたところで、
誰もついてきてはくれないということだ。
いくらなんでも、
桃太郎のように「日本一」なんていう旗を背中にくくりつけて、街中は歩けない。

しかし、戦国時代に武田信玄や織田信長が自分の志を旗印にしたように、
我々も自分なりの「旗印」を心の中に立てればいい。
そのためにも、白分の主義主張をしっかりと打ち出し、
明確な設計図を描くことが必要なのだ。
そうすれば、何十万もの家来が信玄や信長の旗印のもとに集まったように、
心を一つにして自分についてきてくれる人が、必ずや現れるはずだ。
人生には、味方が必要だ。
逆境に立たされながらも、
私がこうして這い上がってこられたのは、多くの人の助けがあったからだ。
そして、それを得るためにも「情報」が非常に重要なのである。




上記、「桃太郎」のお話は、私の大好きな川又社長の書籍から、お借りしました

川又三智彦(かわまた さちひこ)は、日本の実業家。
会津昭和30年代村企画株式会社代表。栃木県出身。

※米投資会社リーマン・ブラザーズに 「毒まんじゅう」を売却した男です。