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飽食の予言3
    岡庭昇著


       

地球人間は、こんなにも病んでいる そして、こんなにも類似している

飽食の予言3
    
岡庭昇著
地球の血液は水であり
大海はその心臓だ
その広大な心臓には
血漿が満ちあふれている
河、潮、小川は動脈であり
静脈だ  肺のように
心臓より広がっているのは
地球の大気で そこでは
血液が浄化される






飽食の予言3 岡庭昇著 より  飽食の予言1
「食」を工業製品にしてはいけない   ♪はじめに
オツパイを取り戻せ  ♪粉ミルク漬けにする陰謀
他の国々の赤ちゃんも犠牲となった   ♪
母乳を与えさせない「麻痺」のシステム   ♪
なぜ、粉ミルクをボイコットしないのか〜@  ♪そのA
粉ミルクにはアトピーの抗体はない ●  
解決策の一つが、親のしっけ″という時代  ♪
「給食」って何なのか?   ♪占領政策としての給食 
給食は「食」のゴミ捨て場   ♪もっともらしい「弁当論」の誤り   ♪あたりまえの疑問からはじめよう
子どもが成人病にかかっている    ♪自由の森学園の試み   ♪石油オムツを燃えるゴミ″にするワケ 
なぜ、東京はトイレ臭いのか?    ♪矛盾は子どもに集中する   ♪ 日本を覆っている「病気」
軍隊と学校の違う点がこれでは……  ♪人間が生物であることを忘れている  ♪ 
いじめ行為は、子どものオリジナルではない  ♪食社会の最下位が赤ちゃん≠ニいう国     
子どもを蝕むものの正体    ♪   ♪

「食」を工業製品にしてはいけない  飽食の予言3 岡庭昇著

企業は利益を上げるために活動する。あらゆる配慮をこえて、利益が優先する。
資本主義杜会である以上、これは常識であり、前提である。
それ自体を、悪と決めつけるわけにはいかないかもしれない。
だが、むろんそれだけですむというわけにもいかない。
マスプロ生産のレベルは、
もはや自由競争の原理ではコソトロールできないのだから。
現在の工業杜会の水準では、利益を上げる(コストを下げる)ことと、
環境破壊たどの反社会性は、必然的にセットになっている。
早い話が、コストを有効に下げうる手段は、
たいがいの場合、環境を破壊し、健康を冒すのである。
「利益を上げたい」活動を、わざわざするような企業は存在しえない。
そしてもうひとつ、忘れてならないのは、食品は直接健康にかかわる以上、
断固として商品一般ではないということである。
決して、コストのみで発想してはならない。
にもかかわらず、"食"を工業製品一般に還元させ、
利潤追求の手段としたところに、
われわれの社会の最大の腐敗がある。
したがって、企業の杜会責任を問うなど、
社会の側からの歯止めが必要になってくる。
究極には杜会自身が、どのように十全に、どのように健康に生きるかを、
自らの価値としてもち、企業を従わせるべきであろう。
だが、とりあえずの課題としては、行政が企業を安全基準
(ごまかすためのトリックではなく、はんとうの基準)でしばるしか方法がない。
とはいっても、行政は絶対にそんなことはしない。
環境と健康をめぐる日本の腐敗は、すべて官害というか、
行政悪に起因しているのである。
もともと行政は、他国にも例がないほど、がんじがらめに経済活動をしばりあげ、コソトロールしている。
日本の工業化杜会のひずみに農産物市場にではなく、
正当に狙いをつけてきたアメリカは、
どうやらこのあたりに気づきつつあるようだ。
日本の公正取引委員会は番犬の役割も果たしていないとか、
株主を無視した株式会杜運営がまかりとおっているとか、
アメリカ側の発言は、ズバリ核心をついている。
つまり通貨コソトロール、生産調整、独占価格の設定、労賃の押さえこみなど、
ほとんど産業ファシズムといっていいほどの超管理体制によって、
過剰生産恐慌を食い止め、ダソピソグ輸出を一丸となってつづけている。
われわれに分配したわずかた賃金も、国内高価格の設定によって取り上げる。
ともあれ日本の行政は、企業活動に徹底的に介入する。
こんな資本主義があるか、競争において勝てるわけがないじゃないか、
とアメリカが荘然とするほどに。
しかし利潤を追求する行為が、反面で必然的に環境を破壌し、
市民の健康を蝕んでいることには、まったく知らん顔である。
この面での規制や介入はない。ほとんど何もしない。
企業がその広告支配力をふるって、メディアから真実の晴報を締め出していても、
お得意の"行政指導"ひとつするわけではない。
それどころか、杜会から自然に湧き上がってきた企業支配への批判を、
積極的に押さえこんだり、妨害したり、あるいは巧妙にごまかしたりする。

はじめに     飽食の予言1

この本は、読者のみなさんから圧倒的な支持をいただいた、『飽食の予言シリーズの第三弾にあたる。
 テレビ・ドキュメント
「そこが知りたい・怒れ・ー億総グルメ・これでいいか日本の食卓」(一九八六年二万放映)を製作したときから、
わたしのなかに、
一九二〇年代に中国の大作家・魯迅が書きとめた「子どもを救え!」という言葉がつきまとって離れなかった。
そこで、この第三弾では、正面から子どもの食生活について取り上げてみた。
 生産効率と政治的御都合主義だけで成り立っている「GNP野蛮大国」のあさましい現実は、
もっとも残酷なしわよせを、子どもたちに押しっけている。
わたしは、一人の親として、心底、怒りに打ち震えながら、「これでいいか日本の赤ちゃん環境」と問いかけた。
 なによりも大事なのは、まず親が、このような現実に怒ることである。
親が守らなくて、子どもはいったい、どうやって生きていけばいいのか。
 子どもを、産業兵士予備軍としか認識しない社会の、必然的に作り上げたシステムーいっせいに同じものを、
同じ時間で、同じ顔つきで食べることを強制される学校給食が、先取りされた徴兵に見えないとすれば、
よっぽどどうかしているのだーこそが、子どもたちのからだを破壊している。
とりあえず、兵士になるまでの過程を、加工食品の消耗先として認識されているといおうか。
「子どもを食い物にするのはやめてくれ!」
 親だったら、せめてそれくらいは叫ばうではないか。
わたしは、なによりも親の「義務としての怒り」を提案し、
子どもの食生活について、「親のしつけ」こそが、緊急の課題であることを訴えるために、この本を書いた。
その先は、ここでヒントを示したさまざまな専門書にあたって、みずからの理論武装にはげんでいただきたい。
 むろん、わたしも、西岡一、山田国廣、植村振作、中西準子、八竹昭夫といった、
たたかう学者たちの専門の研究から学んできた。
それは、したりげな業界代弁者たちの疑似科学的なウソに負けないためにとった、
わたしなりの理論武装にほかならなかった。
いまさら、何を、どれほど勉強したところで、専門家になりうるわけではない。
 わたしは、あくまで一人の消費者、一人の親としての素朴な怒りを貫いててきた。
素朴だからこそ、絶対に丸めこまれないと借じて、現状を糾弾するドキュメントをつくっていくだけである。
 あらためて、ここで確認しておきたい。
 いまや、子どもを健康に育てるためには、われわれ親は、
全世界を相手に戦争をしなければならないのである。
いまや家族が一丸となって、食べさせられるシステム″としてのニッポソ、
食べさせられることによって身体が食べられてしまう″生産第一主義に抗議し、
自分を守るためにたたかわねばならないのである。
 つまり、本書ほ『飽食の予言 シリーズのしめくくりであるが、
同時に、家族戦争″(家族ぐるみで健康と環境を奪うシステムとたたかうこと)のはじまりを高らかに告げる、
出発の書でもある。
 行政とマスコミが結託してシステム″を守ろうとしているとき、
突破口となる情報も行動も、かかって人間のネットワーク≠ノある。
いまや、わたしたちにとって、市民の義務は、たたかう親≠ナあることでほないか。
たたかう親″たちの人間のネットワーク″づくりへ −。
 そのために、本書がいささかでも役に立ちますように。
 最後に、予定したことではなかったが、この本を郷津恒夫さんに捧げる。
まぎれもなく彼こそは、信念に生きた農民であった。
 彼の早すぎる死を悼み、ここに遺志を継いでたたかうことを、あらためて誓っておきたい。

オツパイを取り戻せ

●粉ミルク漬けにする陰謀
 いま、粉ミルクは、あまりにも大量に使われすぎてはいないか。
たしかに、虚弱だったり、体質的な理由で母乳が出にくいお母さんの場合、
粉ミルクは必要不可欠なものであろう。
しかし、そういうやむをえない場合のみの使用にしては、あまりにも消費が多すぎる。
じっさいは、健康なお母さんたちが、母乳を与えないで、わざわざ粉ミルクに替えているのである。
乳房の形が崩れるのを気にする若い母親が増えたなどという、まことしやかな言い訳を信じてはいけない。
乳が出すぎて、しぼって捨てなければならないほどなのに、なおかつ粉ミルクを与えてしまうという現象は、
美容上の理由や、女性たちの母親意識の希薄さからくるのではない。
ようするに、粉、ミルクメーカーが乱立し、あまりにもその生産量が巨大すぎるのである。
 つまり使う側にではなく、生産する側にのみ、理由がある。
ここでもわたしたちは、使う≠フではなく、〃使わせられている″のだ。
高カロリーさえ摂れば安心だという、母親の側のカロリー信仰が、さらにつけこまれる理由になる。
甘さや濃厚さなど、味覚のうえでの習慣性も巧妙に計算されているから、
いったん粉ミルクの味を覚えると、母乳を受けつけなくなる赤ちゃんも多い。
賢明な母親たちの間でほ、粉ミルクの製法指示より薄めにつくれという言い伝えが、
伝統的に申し継がれているほどだ。
粉ミルクのメーカーと病院関係者の癒着こそ、粉ミルク問題の元凶として、非難されなければならないだろう。
粉ミルクのメーカーが病院関係者を抱き込み、無料のサンプルをばらまき、
病院で赤ん坊を産んだお母さんに粉ミルクを与えて、いわば粉ミルク漬けにしてしまう。
これが、ごく一般的な日常になってしまっている。
 病院では、母子別室制といって、母親と赤ん坊を別々にしている。
わざわざ母親の母乳を与えないようにしているところが多い。
とくに、夜間は、ほとんどの場合がそうである。
そして、退院してからも、ただでもらった粉ミルクを、使いつづけることになる。
無料のサンプルを使い終わるころには、もはや粉ミルク抜きでは、母乳も赤ん坊も生活できなくなっている。
 そんなふうにして、いわば、赤ちゃんたちは世界中で粉ミルク漬けにされている。

他の国々の赤ちゃんも犠牲となった

 この、もっとも深刻なケースは、第三世界に現われつつある。
高度に(ということは迷路のように)発達した資本主義の体制のなかで、
住宅と職場の距離や、働く条件等、そしてお母さんの健康が奪われているという状況のなかで、
いやおうなく粉ミルクに頼らざるをえない、という世界はたしかにある。
それとは違う状況のなかでも、メーカーの巧妙、かつ大量の宣伝、売り込み工作によって、
粉ミルクが使われているのだ。
しかも、粉ミルクを溶く水の消毒や、晴乳ビンの消毒等、さまざまに付随する条件が悪い。
そんななかでの粉ミルク使用は、当然のことに、衛生上の危険性を伴う。
 たとえば、一九七〇年代のはじめ、
アフリカのある地域では、栄養失調、下痢、脱水のため、
瀕死の状態になって病院にかつぎこまれる赤ちゃんが急増して、大きな話題になった。
これは、粉ミルクの使用のせいである。不必要な使用と、使用条件の悪化とが、重なったものだ。
わたしたちは、第三世界の子どもたちの場合、ふつう直接的な飢餓を連想する。
飢えによって死ぬ子どもたちが、第三世界の大きな問題としてある。
しかし、一方で、いわば文明病というか、
物余り社会の産物とみられている粉ミルクの害が、ここにも押しっけられている。
 これは、現在、化学調味料や加工食品においてみられる、
いわゆる先進資本主義国の、無理に使わせる構造を、そのまま第三世界に押しっける戦略の、
ひとつの端的な現われである。
 アフリカには自然がある、健康な人たちがいて、健康な生活を送っている、
そこにはプリミティブな親と子の関係がある、などという昔ながらの妄想を抱いていると、
いや、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど第三世界ほど、
資本主義のコマーシャルと販売のターゲットにされているところはないのだ、
という事実を見落としてしまうことになるだろう。
 たとえば、日本消費者連盟が発行した『母乳Z粉ミルクー赤ちゃんにおっぱいをとりもど
せ』には、こういう記述がある。
《「愛とラクトゲソで、赤ちゃんを育てましょう。とても大事なお知らせです。ラクトゲソには、
赤ちゃんを丈夫にする蛋白質や……」
 これは、世界長大の乳業メーカーであるネッスルがアフリカで行ったコマーシャルだが、
−九七三年のケニヤでは、この種のネッスルの宣伝が、
この年のラジオ・コマーシャル全体の11%に達していたという。
 さらに、ダメ押しのように現れた(看護婦もどき販売員)も勧めるのだ。
「赤ちゃんには、粉ミルクがいちばん」と。
 こうして、第三世界の多くの母親たちが、
粉ミルクの自さの中に成長の力が秘められているかのように、思い込まされてしまったのである》

母乳を与えさせない「麻痺」のシステム

 わたしたちは、健康に関する専門家として、文句なしに病院を信頼し、そのいうことを聞く。
だからこそ、粉ミルクを無理に使わせる病院の姿勢ほ、批判されなければならないだろう。
 粉ミルクは年々進歩して、赤ちゃんには善がないとか、母乳だって、いまやさまざまに環境汚染がある、
という類の論調がある。
部分的にはいくら正しくても、社会的なあり方として、やはりタメにする論理だといわねばならない。
利権といっていい、粉ミルクメーカーとの、
さまざまな結びつきで、粉ミルクを無理やりに母親に押しつける病院のシステムを正当化することにはならない。
 先ほどものべた母子別室制などは、その最たるものだ。
赤ちゃんを新生児室に隔離して、病院が定めた授乳時間以外は、母親でも中に入れない。
夜など、よっぽど強くいっても、病院はまかせろというだけで、一律に粉ミルクを強制する。
 そもそも母乳というのは、赤ちゃんが頻繁に乳首を吸うことによって、よく出るようになるものである。
母体ほ、そういうふうにできている。機会を失わせることで、母乳が出なくなるようにしむけているようなものだ。
また、計画分娩における子宮収縮剤は、母乳を出なくさせる副作用があるといわれている。
普通分娩における麻酔の使用も、赤ちゃんの母乳を吸う力を、弱くさせてしまう。
 こういったさまざまな意味で、ほんらい母と子の結びつきの基本であり、
赤ちゃんの健康を支える母乳が、赤ん坊に与えられない状況がつくりだされている。
 また、赤ちゃんの側からいっても、ちょうどわれわれが化学調味料だらけの味の、
表面的などぎつさに麻痺させられ、手をかけた奥行きある、
うす味の豊かさをもはや感じることができなくなってしまっているように、
粉ミルクの表面的なおいしさのため、母乳を与えても、味の強い粉ミルクを選ぶようになってしまう。

なぜ、粉ミルクをボイコットしないのか〜@

一九五五年、森永ドライミルクにヒ素が入っていたという、いわゆる「ヒ素ミルク事件」があった。
大事件のわりには、消費者の側からの追及がなかった。
それに対し、アメリカ、カナダ、ヨーロッパでは、有名なネッスル・ボイコット運動がある。
前出の『母乳VS粉ミルク』 によると、
一九七七年、アメリカのINFACTという運動によって提唱されたネッスル・ボイコット″は、
 @ ただちに、粉ミルクの販売促進活動をやめる。
 A 消費者に直接、粉ミルクを勧めるような行為を中止する。
 B 病院や家庭にいる赤ちゃんへのサンプル配布をやめる。
 C (看護婦もどき販売員)の使用を中止する。
 D 医療専門家や医療機関への売り込みをやめる。
この五項目を要求して、活動を続けた。
一九八四年になって、ネッスル側の譲歩により、ボイコット運動は中止される。
すなわち、ボイコットがネッスルに勝利したのである。
日本における消費者の例の立ち遅れもさることながら、行政はさらに
 − さんざんいろいろな局面でもみてきたように − 徹底的に遅れている。
むしろ、わざわざ遅れさせている。
 たとえば、一九八〇年に、国際保健機構(WHO)と国連児童基金(ユニセフ)は共同で、
各国政府や市民団体、企業の意見を聞きながら、
「母乳代替品のマーケテイングに関する国際基準」づくりに着手した。
そして、マス・メディアへの粉ミルクの広告や、サンプル配布、企業の人間が医療施設で活動すること、
粉ミルクの缶やラベルに、《母乳化した》といった表現や、赤ちゃんの絵を使うことなどを禁止する、
という国際基準をまとめ上げた。
これは、一九八一年のWHO総会で圧倒的多数で賛成され、採択された。
にもかかわらず、例によって例のごとく、日本は棄権したままである。
日本には粉ミルク問題は存在しない≠ニいうのが理由だが、存在しない″のではない。
存在させられない≠フだ。存在しては困る、と正確に言いかえるべきか。
存在させないために、ここでも行政が、業界のバックアップをして、WHOの決属せにぎりつぶしてしまったのだ。

なぜ、粉ミルクをボイコットしないのかーA

 じっさい、この国際基準ほすばらしいもので、粉ミルクのサンプルを、配布することを禁止している。
だが、例外がある。母乳代替品で哺育される必要がある乳児″のために、病院に提供することはいい、
ということになっている。
粉ミルク会社は、この例外項目を徹底的に利用して、母乳代替品で哺育される必要があるかどうかにおかまいなく、
大量に粉ミルクを病院に提供しつづけている。
そして、じつさいには、先ほどもみたように、母乳代替品で哺育される必要を、意図的につくりだしているのだ。
〈このような「国際基準」の精神に反する行為に対し、
スワジラソドのR・ツァバララ氏が、一九八五年のWHO総会で、
「多量の粉ミルクを提供することぐらい、母乳哺育の妨げとなるものはない……。私たちは、
こうした医療施設を通じた多国籍企業の販売促進活動を規制、いや、禁止しなければならない」と発言。
 また、マラウイのJ・M・ラシディ氏も、同総会で、
「粉ミルク会社は、医療施設に大量のサンプルを贈って、医療関係者にそれを使わせ、そのことによって、
人々を粉ミルク晴育に引き入れようとしている。このような行為は、母乳哺育にとって極めて有害であり、
許されるべきものではない」とその規制を要求した。
 こういった声をうけてWHO総会は、翌八六年、
「加盟国は、病産院が母乳代替品で哺育される必要のある少数の乳児のために使用する少量の代替品を、
無料あるいは廉価で提供されるのではなく、正規の方法で調達するようにさせる」という勧告を含む決議
(WHA39・28)を採択し、病産院への粉ミルク提供を事実上、禁止したのである〉
(『母乳VS粉ミルクー1赤ちゃんにおっぱいをとりもどせ』)
 九九票のうち賛成九二票と圧倒的多数であったが、
じつさいには、このような国際的な発想とはまったく食い違って、
日本では粉ミルクに問題があるという事実さえ、一般市民には知られていないというのが現実なのである。

粉ミルクにはアトピーの抗体はない

 何度かふれてきたが、ルポライターの朝倉光太郎さんが書いた『うちの子のアトピーが治った』(徳間書店)は、
朝倉家4人のアトピー戦記3200日≠ニサブタイトルが付けられている
ように、家族全員の努力で子どものアトピーを治した、感動の記録である。
 長女がアトピー性皮膚炎になって苦しんでいるのを見たとき、
まず朝倉さんは、何よりも粉ミルクの弊害について考えたという。
出産後三日以内ぐらいに出る、いわゆる初乳には、免疫グロプリンkAという抗体がある。
この抗体によって、アレルギーを起こす原因のアレルゲンや、細菌などから、赤ちゃんを守っている。
これほ、粉ミルクにはできないことである。
 哺乳の持つ、母と子の大切な体の接触も重要だ、と朝倉さんは言う。
《赤ちゃんが乳首を吸うと、その刺激で母親の脳下垂体から二種類のホルモンが分泌される。
そのうち、プロラクチソというホルモンは母乳をつくるのを促し、
もうひとつのオキシトチソは乳腺を収縮させ、乳汁を乳首のはうに流し出す働きがあるという。
 乳首を吸われれば吸われるほどお乳の出がよくなり、血液中のプロラクチンも増えてくる。
 そしてこのプロラクチソは、母性化を進めるホルモンでもあるという。
哺乳によって母親はより母親らしくなり、親子の愛情がはぐくまれるのである〉「うちの子のアトピーが治った」)
 人間的な関係も重要だが、同時に、アレルギーから赤ちゃんの体を守る抗体″が大事である。
初乳のあとすぐミルクを与えてしまうと、この抗体がちゃんと形成されなくて、
ミルク・アレルギーになりやすくなってしまう。
 粉ミルクメーカーと結びついた病院の、強制的に粉ミルクを飲ませる体制が、
現在の子どもたちのアトピー性皮膚炎を多発させている大きな原田、と認識されるべきだろう。
 朝倉光太郎さんと奥さんは、二番目の子どもを産んだとき、徹底的に母子別室制に反抗したという。
すなわち、夜も赤ん坊が寝かされている部屋に強引に入っていって、母乳を与えた。
母と子の関係で、母乳を与えるというあたりまえのことが、
このような徹底した実力行使でなければ実現できない、という奇妙な状況がある。
朝倉さんの本にわたしが感激するのは、こういった、親と子ほんらいの愛情に貫かれた姿勢である。
そして、本質的に正しいかどうかを問われないまま、
しきたりゆえに営まれているシステムに、敢然と反抗してみせた点である。
朝倉さんはいう。
(少し冷静になって考えてみれば、牛乳は牛の子を育てるためのもの、
人間の赤ちゃんを育てるには母乳という、あるがままの自然のルールが理解できたはずである。
 にもかかわらず、人間の赤ちゃんに母乳を与えず、牛乳からつくったミルクを与えてきたのは、
ひとえに、赤ちゃんの立場に立った子育てを考えなかった戦後日本の誤れる風潮である)(同前)
 粉ミルクは牛乳でさえなく、徹底的に人工的な食品である。
しかし、そんなことはどうでもいい。大事なのは、赤ちゃんの立場に立った子育て、という発想である。
こういう基本的な発想が、日本全体に欠けてしまっているのだ。
親の都合をのみ満たす育児が、ごくごくあたりまえのこととして正当化されている。
そこをひっくり返さないがぎり、何も始まらない。

解決策の一つが、親のしつけ″という時代

 わたしが朝倉光太郎さんを立派だと思うのは、
加工食品の魔力から子どもたちを遠ざける努力をするのは親の義務である、という発想が貫かれている点だ。
 食べものの原則は、いうまでもなく近くで穫れたものを、なるべく早く、手をかけずに″食べることである。
現代ニッポソでは、この原則は逆立ちしている。加工食品の比率は、ますます増えている。
保存や腐敗防止のため、危険きわまりない添加物が加えられ、ひどい着色料や芳香料が使われる。
コマーシャルの氾濫が、加工食品を、ますます子どもたちに押しっけることになる。
加工食品から子どもの体を守るのは、じつさい、容易なことではない。
やもちろん誘惑″がないわけでほない。
外出先で、ファーストフードショップの前を通る時、
化学調味料たっぷりの中華料理店の前を行きすぎる時、しばしば私は悪役になる。
「おとうさんって、だいっきらい!」そういわれてもかまわない。
私がつっばねていれば、妻と娘たちだけでそうした店を利用することがあっても、回数は二分の一に減少する。
それだけ、化 学物質やアレルゲンの可能性がある食物をとりこむ機会が減るからだ。
 娘たちにはいつもこう話して聞かせる。
「お前たちが、自分で生活するようになったら、何でも好きなものを食べればよい。
でも、それまでは、親の責任で、からだによくないとわかっていて食べさせるわけにはいかないよ」
 地位も財産もなく、暇もない(?)私が、せめて娘たちに遺してやれるのは、
そういう考え方で生きていく、ということだけだと思っている」(同前)
 赤ちゃんや子どもの環境問題は、子どものしつけではなく、親のしつけの問題ではないか。
 ここには、みごとに親のしつけ″のあり方が示されていると思う。


「給食」って何なのか?

●占領政策としての給食
 学校給食がどういう理由ではじまったかについて、もうほとんどの人が忘れてしまっている。
学校給食は歴史的に、戦後の食糧危機と結びついた一種の社会政策であった。
すなわち、貧しい家の子どもたちが、学校に弁当を持ってこれないような状況の中で、
そういう子どもたちを公的な資金で救済するためにはじめられたものである。
 その意味ではもちろん、飽食グルメ時代のこんにち、
給食の社会的使命はとっくに終わっているといっていいだろう。にもかかわらず、惰性のようにつづいている。
あるいは、すでに一個の大きな利権になってしまっている。
 給食をもしつづけるなら、現在の社会状況の中で、どのような意味を持つものとして再生させなければならないか。このあたりまえの論議が、棚上げされている。
いや、学校給食の戦後史を検討すると、はじめから余剰小麦をさばくためだけの目的で、
学校給食という制度を思いついたのであろう。
弁当との選択やコメの主食を認めず、小麦(パン)を強制し、
古米が余れば手のひらを返したように古米給食を押しっけ、行革のためにとセンター方式にし、
一方では加工業者には大金をバラまき、ときに一部の関係者が業者指名という名の利権をにぎることさえある。
すべて御都合主義の権化ではないか。
 ほんらいは、公の責任において子どもたちに十分な栄養を提供するという意図にはじまったのかもしれないにせよ、スタートしたときから、きわめて不純な目的に使われている。
アメリカの、食糧面での占領政策である。そのことは、給食のこんにちの堕落、嶺廃と無縁でほない。
 当時もいまも、アメリカは慢性的に、小麦の膨大な過剰在庫を抱えている。
ここ数年ほ皮肉なことに、敵国であるはずのソ連に不作がつづいているため、
ソ連を最大のお得意先として、かろうじて解決しているほどだ。
 アメリカは日本を、自国の慢性的な過剰小麦の消費市場に育て上げようとした。
そのため、長期的な計画にもとづいた、したたかな、かつなりふりかまわないプランがつくられた。
たとえば、パン食の普及を目的とした団体をつくり、パン焼きかまどを日本の津々浦々に普及させるため、
宣伝カーを走らせて教育してまわる、というような試みもとられた。
 この計画ほきわめて大規模なもので、たとえば、日本での小麦の売上を、本国に引き上げず、
さらに売上を増やす資金にした。
つまり、プールした金で、現在のトップクラスの製パン会社をバックアップし、育て上げた。
 アメリカが、戦略的に日本を小麦の市場に育て上げるため、さまざまな対策に携わった人たちに、
インタビュー取材をしたことがある。
彼らはいまなお、日本の文化水準を上げるために大いに役立った、と自負している。
戦後近代化の妄想は、公害の七〇年代を通過し、
薬害の実験場といわれるニッボンの現状にあっても、なお健在なのだ。
 たんに食糧不足だから、アメリカから一時的にパンを買って食べましょうというだけでは長続きしない。
そこで、パンを食べることがアメリカナイズであり、それこそ日本が近代化する道だという、
文化的な錯覚を動員して、パン食を広めた。
パンを食べると頭が良くなる、というばかばかしい発言をした一流の生理学s者″がいたほどである。
(この妄想は、じつさいにはいま、若者はコメ食が大好きなのに、若い世代だからパン食中心だろうという、
大方の中高年の妄想−−−そこにつけこんで農業つぶしのウソ統計が流布される −に後遺症を残している。
じつさいに、若者とつきあってみたまえ。だいたいのところ、みんなコメが大好きである)
 給食は、このような遠大な計画の一環として位置づけられた。
すなわち、子どものうちからパン食を身につけさせ、
伝統的な日本のコメ中心の食生活から切り離すことによって、
日本を小麦の膨大な消費市場として育てようという計画である。
給食がほんらいの正しい意図からはずれ、
食べもの業界や行政のもくろみの対象になってしまったのは、
まさにアメリカの「小麦占領政策」以来といえる。
 小麦、大豆がほとんど米国産の輸入になり、飼料のトウモロコシをふくめて、日本産はすっかり消えた。
おまけにコメまで輸入しろという、こんにちの事竿世界の先進国ではただひとつ、
自国の農業を粗末にしている現状 − は、じつは占領政策の延長なのである。
 根本にまで歴史をさかのばって、給食のいかがわしさ″を考え直さなければ、ほんとうの再検討はできない。
給食は日本の食糧問題の、マイナスの縮図であるともいえる。
その意味では、給食のいかがわしさ″を洗い出すことこそが教育″といえるだろう

給食は「食」のゴミ捨て場

 現場の取材を重ねてきたわたしの、痛切な実感を要約するとこうなる。
 現在の日本社会では、食べものが食べものほんらいの論理で動かされることがない。
あまりにも、なさすぎるのだ。食ほんらいの論理とは、すなわち味覚や安全性である。
それらを基準として食べものが動いているのではなく、
経済的なコスト主義や、政治的な御都合主義でのみ動かされている。
あまりにも、ミもフタもなくそうである。このことを、わたしほくり返し強調してきた。
 輸入農産物は、政治的御都合主義の、いちばん露骨なケースであろう。
みんな忘れているか、忘れさせられているから、はっきりいっておく。
われわれ消費者のほうから、食品を輸入してくれなどと望んだことは一度もない。
また、輸入する側も、味がいい、安全だからという理由をタテマエにしたことさえない。
もともと、アメリカに工業製品のダンピング輸出をつづけたいため、
引き換えに農産物を輸入するという理由しか存在しない。
したがって、味覚や安全性といった食べものほんらいの論理に対する配慮はまったくなくなる。
ようするに、ビデオやクルマと引き換えに、われわれの体が売られているのだ。
 こういった状況の中で、給食はさらにその御都合主義の凝縮だということができる。
まずはじめに、輸入しなければならないと勝手に決めてしまったさまざまな農産物
たとえば、ニュージーラソド産の牛肉はディルドリソまみれである − を、
今度はなんとかさばかなければいけないという理由で、給食に押しつけるのが行政のやり方だ。
こうして、子どもたちの健康に直結する学校給食は、いつも矛盾の解決を押しつけられ、
政治的御都合主義の尻ぬぐいをさせられる場所である。

もっともらしい「弁当論」の誤り

 ところで、かねてからわたしには一つの疑問がある。
給食の改善はもちろんすぐにも要求されているが、そればかりではない。
むしろ、発想の根本的な転換が必要なのでほないだろうか。
 給食などがほんとうに必要か、と一度問うてみるのはいいことである。
食糧難の時代の社会政策の遺物ではないか。
いま、画一的に同じものを食べさせられていて、いかなる教育的意味があるのか、
といった類の疑問をもつべきである。
 これに対して、たとえば評論家・木村治美の「弁当論」などもあるようだ。
もしもお母さんに、子どもへの愛情があるなら、弁当をつくってやるべきだ、という愛情論である。
こういう一種のモラル論は、しよせんは抽象的でしかない。
個々の家庭が、個々の顔を持った食事をつくるという意味では、正論のように見えるが、じつほ反対である。
こういう言い方には、個々の母親が現実に置かれている状況の切実さが見えていない。
埼玉県でいえば、浦和の中学校で採用している選択制が、わたしにとっては現実的な対応のように思われる。
それは埼玉県教組からの除名組で、さまざまな社会問題にとりくんできた教師のグループが実現させたものだ。
弁当を持ってくる子どもほ弁当を持ってくる、給食を選ぶ子どもは給食を選ぶ。
それぞれの家庭の事情によって自由に選ぷ、というやり方だ。
 そのほか、埼玉県新座市では、無農薬有機野菜を共同購入するグループが、
安全な材料を給食センターに持ち込んで使わせる運動をやっている。
これも、現実的な対応として見習うべき点がある。

あたりまえの疑問からはじめよう

 給食の問題で必要なものも、やはり親のしつけである。
 社会も学校も、ほんらい教育機能をそなえているものである。
社会全体が子どもたちを育み、学校が学問を教える。その過程のなかで人格が形成されていく。
ところが、現在のニッポン社会は、政治的御都合主義と経済効率だけで動いている。
教育も経済効率性に奉仕するために、産業兵士として、人格を奪われた労働力をつくるだけに専念している。
その結果、環境は破壊され、子どもたちの健康も蝕まれている。
 親がなすべきことは、社会や学校が教育幾能を失っているとき、自らの手で子どもの教育を実践し、
子どもたちの健康と生きるべき環境を取り戻すことにほかならない。
 その意味で、親のしつけとは、環境と健康に対する基本的な知識を持つこと、
子どもの健康と成長をもっとまともに直視すること、さらに梼極的に社会や教育を変えていくこと、
批判していくことでもある。
 たとえば、こういうお母さんがいる。「学校給食を考える会」 の大森章子さん。
なによりも彼女の発言は、基本的に母親という立場からの、当然の疑問から出発している。
〈大森です。私はたった一つ、母親という肩書きになっています。私には二十一歳と一八歳の息子がおりまして、
十二歳まで学校給食を食べました。二人とも虚弱アレルギー体質のために、
日々の生命をつなぐのが必死の日々を幼児期ほ送って釆ました。
小学校になって学校給食の出逢いがあったとき合成洗剤とか冷凍食品とかプラスチックトレー、
化学調味料とか、我が子には合わないものがどっと押し寄せてきたことによって
私は学校給食に対する目を開かれたわけです。
 一体学校給食法というのがあって、日常生活において正しい食生活とか望ましい食習慣とかを義うための
学校給食にその様な合成洗剤とか冷凍食品等々そういうものが入ってきて、果してこれが
教育としての学校給食であろうかと大きな疑問としてぷち当ってきたのです。(中略)
 私の所沢市の教育委員会の立場というのは、同じものを同じ処で食べれば教育なのだということなんです。
するとどのような物質をどのように取組んでもとにかく四万五千人くらい児童、
生徒がいるのですが、同じスタイルで食べているのが教育だとすると私としてはたまらないなと、
これはいくらやっても平行線だということ…〉
 なぜ、みな同じものを同じ速さで同じ顔で食べなければならないのか。
子どもの健康に直接関わる学校給食の場に、合成洗剤と冷凍食品とプラスチックと化学調味料が、
なぜ平然として使われているのか、と問うところからはじまる。
 いってみればあたりまえのことである。しかし、このあたりまえのことを、だれもが問わないまま、
子どもの体が蝕まれてきているのが現状ではないだろうか。
 この発言ほ、一九八八年の八月一〇、一一、一二日に開催された「給食を考えるシンポジウム」の記録で、
「全国学校給食を考える会」(東京都杉並区永福一−七−七)が発行した「子どもの未来と学校給食恥5』
 に掲載されている。

子どもが成人病にかかっている

 この本の中で、東京医科歯科大学助教授・栗原洋子さんは、
〈結局、子どもたちほ、やはり成人病に近い食生活をしている、と認識すべきだ〉と断言している。
子どもたちの健康を考えるとき、
基本的に成人病の可能性を考えなければならないとは、いったいいかなる事態なのだろうか。
〈先程の、小中学生は殆んど遊んでないんです。塾通いがエスカレートしている。
 小児肥満というのは血圧が上がります。そして、コレステロール血凍、あるいはトリプルピソも高くなる。
肝機能異常をおこす。糖尿病にもなりやすい、それから心理的な圧迫。そして、内分泌の機能も異常になる。
一番困るのは成人肥満へ移行する子供が多い、太ったままの子供ですね。
 調査した方によると、肥満度別にみて、軽度、中度、高度、といくにしたがって肝機能の異常者が増えている、
コレステロールもそうです。
 現在の子供達の食生活の状況ですが、朝食のとり方が少ない、間食、夜食が多い、糖分、脂質が多い、
イソスタント食品、スナック食品が多い、食物織維の不足、糖分、脂質が多い、カルシウム、
ビタミンの不足、肉が多くて魚が少ない、食塩のとり過ぎが多い。(中略)
 子供達の好きな加工食品ですが、これは、インスタントラーメソ、これはラードで揚げてある。
そしてカレールウはヘットで練りこんである。
ハンバーグ、ミートボール、餃子、しゆうまいといった市販品、これはひき肉ほ、油を多く含むものです。
ですから、脂肪がかなり多い、それを処理するのも、飽和脂肪酸の多いものを使っている。
フライドポテト、ポテトチップスなど、スナック菓子、
こういったものはさっきいったパーム油を使っており飽和脂肪が多い。
こうやってましたが、子供達はこういうものが大好きです。
いづれ、心臓病が多くなるんじゃないかな、という事です〉
 同じ本の中で、わたしなどは、
放射線照射の反対運動のリーダーとして知っている里見宏さん(国立公衆衛生院客員研究員)は、
学校という場所が、利潤追求の場所となっていることが根本的な問題なのだ、と指摘して、
そのふたつの例として、給食と集団献血を挙げている。
 給食は一兆円産業で、五〇〇〇億の物資が動く。
そこで、大きな利権が発生し、また、加工食品の業界は、子どもたちに都合のいい味覚や噂好を植えつけて、
長期的な利益を上げようとしている。
 集団献血もまた、大義名分をふりかざして、健康な若い肉体から大量の血液を採り、
さまざまなデータを活用しているらしい。
また、歯科医師の丸橋質さんは、
《私がなんで水を飲みたいか。それは、子どもの頃、おいしい水を飲んだんです。
水に対する、感動があります。だから、本物の水を見ると、飢えたように飲みたくなる。
子ども達は今、最初からうまい水飲んでないから、にせもので育ってるからうまい水に対する、執着がない。
だから、ペプシだ、コカだ、グリコだ、森永だと、しよせんジュースだとほ名ばかりの、
砂糖水をどっちがうまいかと、相対評価しかできない。我々は、絶対評価をしちゃうんですね。
これはにせものだと、子ども達が本物人間に育つ条件というのは、幼児体験の中で、
本物体験をさせることなんです。育つ中で本物体験をすることが、本物人間を育てるんですね。
にせもの体験をすると、永遠ににせもの人間になる。絶対評価ができない。裁きができない人間になってくる。
だから要領は、ある程度いい。どっちだっていいよということになってくる。
この子ども達は、そういう意味で食べてるものを見ても、袋を開けて食べ、缶を開けて飲みという感じで、
可真相だなと思います。あの子ども達は、本物の味を知らないんです。
それと同時にこの子ども達には、本物の味を与えてくれる、本物の親がいないんじゃないだろうか〉
 と、現在の親のあり方を、鋭く批判している。

自由の森学園の試み

 しかし、まず自らのしつけからはじめている親たちが、いないわけではない。
たとえば、埼玉県飯能市にある、遠藤豊、無着成恭、宇井純民らがつくった、自由の森学園のPTAたちだ。
 わたし自身、長女が自由の森学園高等部で寮生活をしているため、よく知っているのだが、
たとえばここの寮の父母会は、どういう集まりを持つか。
周辺の埼玉県に激増している、ゴルフ場の公害を正面から告発し、
これ以上ゴルフ場を増やさないための運動を議論するのである。
こういうやり方こそ、まさに子どもの教育であるといえる。
 この自由の森学園では、従来、給食においても有機野菜や無農薬米を取り入れている。
いや、たんに材料として取り入れているだけでなく、
給食をやるからには、その給食において安全な食生活を実現すること、
そして、そのことによって日本の現実を批判的にとらえ、新しく生きるべき環境と健康の問題を考え、
給食を教育として位置づけようというものである。
 これはじつに正しいやり方だが、こういう学校は少ない。
せいぜい給食を改善するといっても、料理として素晴らしいものにしたり、
また、これも重要なことだが、食器をポリプロビレソから公害のないもの − 
いちばんいいのほ瀬戸物だがーに替えたりする次元である。
 給食は教育だという教育委員会の真っ赤なウソは、かろうじて自由の森学園で実現しているように思える。
ちなみにここでは、弁当と給食の自由な選択を実行しているが、
食堂の評判がきわめていいため、積極的に給食が選ばれているという。


石油オムツを燃えるゴミ″にするワケ

 紙オムツをめぐる行政にも、わけのわからない事態が多い。
 日本消費者連盟も、谷口祐司さんも、紙オムツは不当表示″である、
石油製品なのだから「石油オムツ」と呼ぶべきである、と何度も行政に申し入れている。そ
れに対して行政は、紙は必ずしも使われていないわけではない、というわけのわからない理由でー
というのも紙が一枚、アリバイとして入っているだけなのだから − この申し入れをつっばねてきている。
ほんのちょつとした食いちがいや、規則違反に対しても、重箱の隅をつつくような執拗さで暴きたて、
行政指導したり、販売禁止をしたりする行政が、こんな歴然としたウソを、
つまり不当表示以外の何ものでもない不当表示については、許しているのだ。
 ここにも、行政と業界の癒着があるとしか思えない。
何度も言うように、紙オムツは大企業、それも、きわめて広告出稿量の多い大企業によって売られている。
 さてわたしは、地方行政ほ支持するが、東京は別だと述べた。
アスベストを撤去する、と称しながら、何もしないでほったらかし、
マスコミを押さえ込むことで、問題が終わったように見せかけている東京都行政。
新しい庁舎を建てるにあたって、都民の集まる場所に、わざわざアスベストを使うという非常識さを、
なぜかこれだけ批判されてもやめようとしない東京都。
それは、一方で、紙オムツに関しても、きわめて不可解な行政をしている。
 すなわち、この石油製品であり、高分子吸収体を中心に含む紙オムツを、〃燃えるゴミ″に分類しているのだ。
一度でも、じつさいに実験してみるといい。
わたしほ何度も経験したが、使用した紙オムツなどは、どのようにしても燃えるものでほない。
表面の石油が、ダイオキシン等を含む悪質有害なガスを出したあと、
真ん中の尿や便を吸った高分子吸収体は、手のつけられないかたまりになってしまう。
清掃労働者にとっても危険であり、負担であろう。
一方で有毒ガスが発生し、一方で処理しきれないかたまりが残るのだから。
そのかたまりが、もしそのまま水に流されたり、土に埋められれば、こんどは高分子吸収体からの公害が発生する。
 しかも、その理由が、なんともすさまじい。
以前は、燃えないゴミに分別して出してくれ、といっていたのに、
どうしても都民が言うことを聞いてくれない、燃えるゴミの中に分頼して出してしまうから、
しようがないから現状をそのまま追認することにした、というのだ。
 演出の多いコマーシャルでのみ情報を与えられ、
じつは紙ではなく石油製品であることさえ知らされていない都民の側が、
燃えるゴミの中に入れるのは当然のことなので、この場合は出すほうに責任はない。
きちんとした情報が伝わっていないのだ。
そうだとするならば、まず正しい情報を消費者に知らせていくのが、ほんらい行政のあるべき姿なのではないか。
 まさに、でたらめきわまりない日本行政の中でも、際立ってひどい話でほないだろうか。

なぜ、東京はトイレ臭いのか?

 まさに、いまこそわたしたちは、経済主義を徹底して乗り越える必要がある。
だれにとって都合のいいことが行なわれているのか、と考え出したとき、
何から何まで恐るべき事態であることに気づくだろう。
 たとえば、乳児用の粉ミルクが放射能に汚染されていること、
おまけに行政がそれを知っていて野放しにしていることが、まったく国民に知られていないままの国なのである。
現在の粉ミルクは、どの商品にも共通だが、その半分ほ輸入された脱脂粉乳から成っている。
乳糖とも呼ばれる部分である。この大半が、なんとオランダからの輸入なのだ。
あの、チェルノブイリの被爆国オランダである。
 そのため、いま粉ミルクには、最低でも三ベクレルの放射能が含まれているという。
乳幼児への影響力ほ大人の一〇〇倍だから、いわばキロあたり三〇〇ベクレルのセシウムを含んでいることになる。
大変な放射能値である。理由は、向こうが被爆食品ということで、投げ売りしているからだろう。
まったく、どうしようもない国ではないか。
 また、外国から来る人たちは皆、東京ほトイレ臭い衝だと言う。
以前は、こういうことはなかった。鈴木都政になってから、はっきりトイレ臭い衝になったのである。
そこには、日本のほかの大都市とくらべても、
まったく下水が普及していないという東京のお粗末な現実があるが、
同時にきちんと解決していかずに、簡易水洗や浄化槽といった、
個々の家庭に負担を押しっけた形でごまかしている、
つまり、家庭の下水を、ふつうのドブに流している、
安直きわまりない都政の実態が、トイレ臭い衝となって現われているのである。
 鈴木都政は、行政が黒字であることを誇っている。
美濃部都政の時代には、福祉のばらまきで赤字だったが、立派に経営を再建したという自慢だ。
しかし、こんなバカな手柄≠ェあるだろぅか。
だいたい福祉ばらまきと言うが、土建ばらまきと、福祉ばらまきをくらべれば、
どちらがあるべき姿として正しいのか。
また、重税を取り立てながら何もしなければ、黒字になるのほあたりまえで、
黒字行政など、市民サービスの欠落の証拠であろう。
 大事なのは、このどうしようもなさ″が、どちらを向いてもいつも行政によって支えられてしまっている点だ。
 ともかく、こんな行政に支配された国ほ、親が安心して子どもを育てられる環境ではない。
残念ながら、その点だけがはっきりしている。
官害は、何にもまして子どもたちの生にとって苛酷なのである。
 学校へ行くことは拒否できても、環境全体を拒否することはできない。


矛盾は子どもに集中する

●日本を覆っている「病気」
 何かが決定的に狂っている、といっても、もはや、別に何の刺激にさえならないだろう。
むろん、いうだけなら簡単だ。いつの時代にも、ありきたりなセリフかもしれない。
だが、いまとくに、ある種の気持わるさ″を伴って思い起こされはしないか。
 同じ言葉に、どんな時代にもありえなかった格別な響きがある。
いってみれば、わたしたちの社会は、整然と狂ってしまっている″のではないか。
日常が、システム化されてしまった奇妙な鎖国。
それだけでも充分に無気味なのに、それはもはや狂気のシステム化でもあるようなのだ。
 一九八九年一〇月一四日、六歳の女の子が誘拐された。
警察は犯人の姿が見えるところまで追いつめながらとり逃がした。
かえって犯人を焦らせ、そのことで殺人がひき起こされた。
早くいえば、警察が殺させたようなものである。この失態の理由が情けない。
袋小路に犯人の車を追いつめたとき、逆襲に転じた犯人にぶつけられ、
びっくりして逃がしてしまったというのだから。
 わたしも深夜、赤坂でヤクザにいいがかりをつけられたとき、
やってきたパトカーの警官がわざわざ相手を逃がしたので、激怒したことがある。
赤坂署まで出かけて抗議すること、二時間。
やっと出てきた暴力団担当刑事≠ヘプロの面魂をしていたが、弁解していわく、
現場に行ったのが若い警官だったので、きっと怖かったのだろう、と。
 素手の市民が二人で、ヤクザ四人を相手に立ち回りを演じているのに、
駆けつけた警官が武器を持ちながら怖い≠ヘないだろう。あきれて、黙るしかなかった。
でも、その説明は、やはり真実だったのだ。
 警官はもっと暴力機能を高めよ、などと主張しているわけではない。
また、日本の警察は公安偏重でーつまり自民党の手先としての政治警察で−−市民生活の安全など気にしてはいない、
とよくいわれる。それほ事実だが、ここではそういう類のことをいいたいのでもない。
 幼児誘拐犯をあっさりと見逃した警官が、パトカーが傷つけられる″と恐れて、
ひるんだ点に着目しているのである。ここにいま、日本を覆っている病気の見本がある。
 先日、川で滞れている子どもを、近くに多数の警官がいながら見殺しにするという事件もあった。
このときの理由は、川に飛び込んだら制服が汚れる″。だから何もできなかったというのだ。
深夜の赤坂に駆けつけた若い警官も、流血で服が汚されるのがいやで、かかわろうとしなかったのかもしれない。  
 異様ではないか。それこそ、ほとんど狂気ではないか。
それともあなた自身、これがあたり前のことだとしか思わないほど、狂気=日常のシステムに組み込まれているか。

軍隊と学校の違う点がこれでは……

 いうまでもなく、パトカーも制服も、しよせんは道具であり、ただの手段である。
よく手入れされ、きれいに撃えられておくべきではあろう。
だが誘拐を防止したり、市民生活の危難を救助するためにこそ、よく手入れされ、
きれいに整えられておくべきなのである。
なのに、道具が汚れるなり、傷むと困るから、それを用いた活動はしないと決めこみ、恥ずかし気もなく告白する。
 旧日本帝国軍隊の野蛮さや狂気は、すでにさまざまにいい尽くされている。
そこでもまた、銃や制服などは天皇陛下からおあずかりしたもの″であり、徹底的な手入れが命じられていた。
が、いかな帝国軍隊とはいえ、銃が傷んだり、制服が汚れるから、戦争はやめておこうとはいわなかった。
 既述したが、ついでにいう。
従軍経験のある日本消費者連盟代表・竹内直一さんの、いかにあの帝国軍隊でも、
支給された食事を残したからといって、ピンタを張られた例はない、という名言だ。
 いまこの民主主義社会では、学校給食を残した子どもたちに、教師が暴力をふるっているのである。
刑務所と軍隊と学校が、本質的に同じものであるところに、日本の近代化″の中身が端的に表われている、
というのがわたしのかねての持論である。
そうだとしても、刑務所でも、軍隊でも、食事を残したという理由で殴られることはない。
学校だけである。人間にはそれぞれ個人差があって、食べる量も好みも当然ながら異なるという、
あたりまえのことを認めないのが学校なのだ。人権を踏みにじることが教育なのである。
 だいたい、残したからといって、殴るような内容のものを出しているのか。
料理の水準としても、材料の安全性においても、学校給食の中身がどの程度のものであるか、
教師は理解する能力を備えているのか。底にあるのは、すべて効率主義という迷信である。

人間が生物であることを忘れている

 いまや、子どもが脅えて泣いたからといって、小児科医が親に静かにさせろと命令する時代である。
子どもが医者にかかるとき、脅えて泣くのはごくごく自然な現象である。
この自然のなかで、手際よく物事を進めていくのが、本来、小児科医の仕事ではないか。
 だが、もはや医者は、この自然″に耐えることができない。
すべての段取りがあらかじめ整っていて、そこからスタートすることしかできない。
そうだとすれば治療≠ニ称してやっていることも、個体差、状況のちがいを無視した、
すべてマニュアルどおりの段取りにすぎないということにならないか。
 給食を残したといって、あるいは廊下で私語を交わしたといって、子どもたちを殴る教師は、
しつけ≠ネどを考えているわけではない。
物事が〃段取り≠ヌおりにいかないから、焦ったり、あわてたりしているだけだ。
もともと、人間の生≠ェ段取りであるわけはない。
だが、この国ではとっくに段取り″として日常が制度化されたのであり、
そういうようにしか理解できない市民ばかりだ。
 制服を汚すのがいやで瀦れている子どもを救わなかったり、
パトカーを傷つけられるのが怖くて誘拐犯を逃がしたりする警官も、
これら教師や小児科医と同じ精神構造にあるといえる。
 人間の生″や日常が段取りや制度に収められるわけがないのに、どうしても押し込めておかなければすまない。
ハプニングがいやだ。素顔が怖い。マニュアルからの逸脱に対応できない。
そもそも人間が生物であるという事実から逃げ出したい……。
 狂気こそが、もっとも無表情な、のっべらぼうな顔をしている。それがこの鎖国の現状なのである。
 いいかえるならわれわれは、整然と生きさせられ、整然と食べさせられ、整然と情報化され、
整然とガンで殺されてゆく。まったく、一億総ハマチ化というべきか。
それともイギリスの作家ジョージ・オーウエルの予言にならって、ニッボン家畜列島とでも呼ぶべきなのだろうか。
オーウェルにも予見できなかったことは、この家畜″(われわれのこと)は、おまけに抗生物質漬けになっている。家畜にも、さらに幸・不幸があるということか。
 哲学者イヴアン・イリイチは、社会がすっかり学校化″しているという、
残念ながら日本でほ一世紀以上も前から常識にすぎない発見に驚き、あわててみせた。
そういうふうにいうなら、われわれはもはや〃給食化社会≠、養殖人間として生きさせられている。
だから食への疑問こそは、現在の日本そのものを根本から問うことにほかならない。
給食化社会からの脱却をはかることは、
いままで述べてきたこの制度化された日常を根本からくつがえすことに等しい。
だからこそ、食への疑問こそが、日本最大のタブーなのだ。

いじめ行為は、子どものオリジナルではない

 日常こそが狂気である、あるいは狂気こそが日常の警している〃段取り社会≠ヘ、
いまわたしがあげた例に明らかなように、社会のもっとも弱い部分、つまり子どもに向かって、暴力化されてゆく。
段取り社会は、いっけん徹底した整然さを志向している。
表面上ののっぺらぼうこそが、理想だ。だからといって、ほんとうの意味で、秩序的なのではない。
パトカーを傷つけたりしないために、
誘拐犯に幼女殺害を実行させてしまうような整然さへの執着≠ェ、ほんとうの秩序であるわけがない。
大人がのっぺらばうな〃秩序≠ノ追いつめられて、より弱者の子どもに暴力をふるう。
どこかに、無理な体制がはけロを欲している。ほんらい弱者の味方ではない警察は、それをやめさせたりはしない。
段取り社会とは、むしろ徹底した弱肉強食の実現である。
保坂展人が編集した「先輩が怖い」(リヨソ社)には、
いまや中学・高校で、いかに残酷在学いじめが横行しているかが、なまなましく報告されている。
一年ちがえば虫ケラ同然いう、旧帝国軍隊、体育会、相撲社会の蛮行が、学校で一般化してしまったらしい。
いまや、社会全体が、子どもを残酷にあつかっている。
段取り社会のもつ整然とした暴力性は、より弱いものを欲して子どもに集中するから、
子どものなかにまた、より弱い存在がつくり出されるのである。
 いじめが、子どものオリジナルであったためしはない。

食社会の最下位が赤ちゃん≠ニいう国

 なかでももっとも弱い存在は、乳幼児である。つまり赤ん坊である。
わたしは、怒りをこめて「これでいいか赤ちゃん環境」と、問いかけたい。
 理由は、もほや明らかだろう。
リッチな日本などと言いながら、世界中で、これはど赤ちゃんに苛酷な環境があるだろうか。
飢餓だけが問題なのではない。
飢餓だけを恐れて、その結果、毒まみれの飽食に満足しているなんて、バカもいいところだ。
それ以上に、バカを子どもにひきつがせようとするなど、もはや許されるべきではない。
殺されているのは、誘拐された幼女たちだけではないのだ。
 かねてからわたしが抱いている、テレビ番組の映像イメージがある。
子どもたちだけの、乳母車デモだ。乳母車のなかには赤ん坊がいる。
押しているのは、四、五歳から一二、三歳ぐらいの子どもたちである。
子どもたちは片手で乳母車を押しながら、片手にプラカードを掲げている。
プラカードには、
洗剤、工場廃液、酸性雨、養殖魚、農薬野菜、原発など、子どもたちを迫害する、
あらゆる社会悪が弾劾されている。
あくまでも、無音でなければならない。音楽も、効果音もいらない。
わたしたちはより良く生きたい、にもかかわらずもはや、わたしたちの未来を生み出す条件は失われてしまった…‥
と、スーパーインポーズが流れる。
その背後に、あとからあとから、赤ちゃんデモがつづいていく。
 これが、わが幻のテレビ・ドキュメント、「これでいいか?日本の赤ちゃん環境」の、ラスト・シーソである。
なぜ幻なのか。いまさら、民放ディレクターという立場のわたしに、ヤポな説明はさせないでもらいたい。
 もはや老年のみならず、子どもたちの死因でさえ一位がガンであるという異常事態になった。
ここまで来ても、いのちと健康にかかわる真の情報は、まだまだメディア化されえない。
企業がすべてを支配するこの不幸な国の、なかでもとりわけて酷い不幸がここにある。
 いうまでもなく赤ちゃん産業は、きわめて大きな市場をもつ、
きわめてメディアへの出稿量の大きな資本に占有されている。

子どもを蝕むものの正体

 わたしは、食の安全性にかかわる多くの取材を通して、行政のこのごまかしを散々に体験してきた。
おかげでいまや、新聞の発表記事″を読むと、行政が何をどのような方向でごまかそうとしているか、
だいたいはわかるようになったほどである。
 典型的なごまかしのケースを、ひとつだけおさらいしておく。
 1986年、ソ連のチェルノブイリ原発で爆発事故が起きたあと、ヨーロッパほ大騒ぎになった。
甲状腺への影響を食い止めるため、子どもたちにヨードを飲ませるなど、対策に乗り出したのである。
 地続きではないためか、それに対して日本の反応は鈍かった。
死の雨が降りつづいたころだけすこしは警戒したが、一週間後にほ行政が安全宣言″を出したためもあって、
すぐ放射能の怖さを忘れた。
いまではすっかり忘れていて、ソ連産のハチミツなど、被爆地域からの食品輸入は、
ほとんどのケースで三〇パーセント以上も増大している。
放射能を含む、つまり発ガン性の食品がわざわぎ−むこうがダソピソグしているから−大量に輸入されて、
子ども向きの食品の材料になったり、給食に大量に送りこまれているのである。
 ところで行政が安全宣言≠出したのは、じつはもっとも放射能汚染が高まった時期なのだ。
自然を循環した放射能ほ生体浪縮の原理により、このとき、死の雨が降ったころの七、八倍の値にまで達していた。
行政はむろん、この事実を充分に知っていて、事実をごまかし、打ち消すために、
わざわざ安全宣言≠出したのである。
放射能を気にしてノイローゼになるはうがもっと健康に悪い
 これがその発表″にあたっての、行政のセリフである。
 歯に衣着せぬ公害批判を展開しておられる、同志社大学教授・西岡一さんは、記憶に残る名言を吐いた。
たんに公害や食品禍が起きている″のではない、企業が儲けるために、わざわざ起こしているのだ″と。
早い話が、たんに企業の利潤程度のことに、われわれの子どもたちの健康が奪われているのである。
 大いに怒ろうではないか。怒りから出発して、こんな社会のあり方を、根本から逆立ちさせなければならない。
子どもたちが、赤ちゃんが生きていける社会にしなければならない。


波と人の呼吸は、なぜ一分間に18回なの?
水の分子の数は、18で、世界中どの国の浜辺に寄せる波の数も一分間に18回です
それが私たちの呼吸の数です。
作用あれば
反作用で18を倍にすると、熱エネルギーになり36になります。
これが私たちの基礎体温です。
私たちの生命体熱(マグマ)は、頭の中心から尾てい骨までの間38℃です。
母親の羊水の温度は、37.5℃です。胎児の体温は、36℃です。
36℃を倍にすると、72℃になります。
これは脈拍、血圧の下限です。
72を倍にすると、144となり血圧の上限です。
これだけの心拍の幅はあったほうがよいのです。
海は台風のような変調をきたすとき、海鳴りがします。
人間はイビキをかきます。人間のイビキにともなう無呼吸は、
地球上でいえぱ竜巻や地震のようなもので一種の危険信号です。
人が生まれるのも、植物が種子をつける開花のときも、みんな大潮のときです。
そして人が息を引きとるのも、潮が引く時であり、これらは不思議と合致します。

企業も個人も自分達のことが大切だから、その活動を最優先するのはあたりまえの事ですよね。企業の活動ができなければ、また、個人が生活していくことが出来なくては、
「環境問題どころではない」はずで、自分らの事で精一杯・・・・・・・・
そして、企業の使命「経済活動・利益優先」というのが現実だと思うのです。
また、病気がちで健康を損ねていたら、
「痛みから開放されたい」「病気を治したい」が、優先されて当然であると思います。
それが、「本音」で、人間らしいと思います。
当サイトは、1999年から、【えん】をテーマにサイトを構築してきました。
やっぱり、悩み事で、病気や健康や痛み・苦しみが圧倒的に多いのです。
「健康で暮らすことが一番だと望んでいる」

「そんなこと、わかっているよ」と反論される人も多いでしょう。
しかし、「健康の定義・認識」を改めなければなりません。
WHOのいう健康ではありません。
自然の中で生きていく為に必要な体を維持していく事が健康かもしれません。
または、今の環境の中で適応して生きていけることが「健康」かもしれません。
今の環境下では、健康を維持することは、きわめて困難なことになります。
逆に言うと、今の環境下では、不健康な人が多いということになります。
だから、多くの人が知らないうちに病んでいるはずです。
では、どうしたらいいのでしょうか?

年俸三十一兆円の「稼ぎ頭」 ・失われる医療予算 
数字が一致しているのは偶然なのか?
「あなたは、川の水が、なぜなくならないか考えたことがありますか?」と、
評論家の富山和子さんが『水の文化史』の中で問いかけている。
「日本のように山と海が近くて川が短く、傾斜も急な国では、雨が降っても水はたちまち海へ流れてしまいそうですが、現実にはそんなことはありません。天気続きでも、川の水がなかなか枯れないのは、山に木があるお蔭です。森の木々と、落ち葉の堆積した表土とが、雨水を受け止めていったん蓄える。それから水はジワジワと地下へ浸透し、時間をかけて再び地表へと滲み出してくる。この緩やかな過程があるから、川はいつも川であり続けられます。木材を生産する森林のもう一つの働きです」

立正大学の福岡克也教授の計算によれば、木材生産、水源酒養、水害防止、保健休養など、山の価値を金額換算すると、なんと年間三十一兆円にもなるそうです。私たちの命の水の源である森林は、今、見捨てられているだけでなく、酸性雨に痛めつけられています。自然を大切にする心を、次世代を担う子どもたちと一緒に育てていきたいものです。


お塩を追求してきて、ある結論に行き着きました

「卵が先か鶏が先か?]
何処から始めたらいいのでしょうか?
よりよい社会を作るためには、どうしたらいいのでしょうか?
生まれてきた子供たちは、劣悪な環境に置かれています。
その環境を作ってきたのは、大人たちです。
その大人たちを再教育することは、とても先入観だらけで難しいのです。
放射性物質の脅威にさらされながら、子孫を残さなければなりません。
では、どうしたらいいのでしょうか?
この現状に問題意識を持ち、ひとりでも多くの人たちに伝えていくしか方法はなさそうです。
特に、子供を産み・育てていく世代の女性たちの負担は、大変なものです。
その世代を支えて行くことが、将来につながります。
その世代に教えていくのは、誰でしょうか?
子供を守るのは女性です。世の中を換えるのも女性です。
母親・祖母・曾祖母が、最もよい相談相手になります。
専門家ではない男性が、とやかくいうことは、マイナスのような気がして
今まで、この話題に 触れませんでした。
正直なお話、確信がもてなかったと言ったほうが正しいのです。
少子化問題の本質は、
産む前に考えて、産む体調を整え、産み育てる環境を大切にしなさいという信号です
我々が生活している地球と人間の体は、酷似しています。
地球が汚れているように地球を汚している我々人間の体も汚れているのです。
海が汚染され、河川が汚されているように
人間の血液は汚れまくり、ドロドロ状態で、体液も潤滑油として機能低下しています。
そして、地球を守ると同時に、大至急、子宮を守る必要が生じています。
放射性物質で海が汚され、母体の羊水も同じことが起きるでしょう。
多くの人が「病気・痛み」で苦しんでいます。
お医者様も「なんとか楽にしてやりたい」と懸命です。
しかし、薬では、病気は、治せそうもありません。
お医者様も薬剤師も「治せない」事実をご存知だと思います。
では、誰が治せるのでしょうか?
答えは、簡単です。「その人自身」しか治せないのです。
そして、「病気・痛み」の原因は、意外なところにあるのです。
日本人の自殺者は年間三万人を超えています。実際の数字は、6倍の18万人と言われています。
 自殺の三大理由は、
トップが健康、二番目がお金、三番目が人間関係です。
約半数が健康の問題を抱えていたそうです。
三割がお金の問題で、多くは借金苦で死ぬと言います。
一割が人間関係の問題です。
舅・姑との関係が悪いとか、上司からいつもいじめられているという理由で死んでしまう。
この三つで原因の九割を占めているという現実があります。

塩には全てのバランスを整える効果があります。
厄をはらい清める効果と、新しい力を生み出す作用があります。
相撲には塩はつきもので、土俵を清め、力士が気力を発揮する役目も果たします。
悪い方位に引っ越したり、家にゴタゴタしたもめ事が耐えなかったりする場合、盛り塩をすると厄がはらえます。
また、欠けや水場など家のパワーがダウンしている場所に盛り塩をすると新しいパワーが生まれます。


断捨離というと新しい片づけ術かと思うかもしれませんが、そうではありません。
断捨離とは、モノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです。
モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、
心もストレスから解放されてスッキリする。これが断捨離の目的です。

必要もないもの、使わないものを手放すことで、
本当に必要なもの、本当に価値のあるものがさらに浮かび上がってきます